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抽象画について

 現代ほど多くの人が抽象的に形を扱う知識を持っている時代はない。

作家個人のコンセプトが広く一般に普及することは困難だが、形そのものは普遍であり、

形の見方のみによって我々はラスコーから今日まで時代を超えた認識を共有する。

しかしそれは同時にあらゆるものが相対的で決定論的であるという、一種の運命的認識によって引き起こされるある種の感情や、それに基づく抽象衝動をも共有するということである。抽象衝動は、宗教的感覚や鋭くものごとの本質をつかむ心の働きと繋がっている。


 抽象画は静止空間としての趣を鑑賞の視点をこちらから変えてやることで見つけることができる。そういった有機的な無機物との相関はナチュラリズムやスピリチュアリズム等とも如実に結びついてくる。


 絵画の側面に滲む汚れや絵の具のタレが気になるような、絵の具そのもののフェティッシュな魅力は、デジタルにはないアナログ特有の美点だが、印刷物、写真、映像その他様々な素材にも固有のフェティッシュな質感が存在する。精巧に作られた植物は無機物であり不自然なものだが、似て非なるもの似すぎた場合、安易に判別はつかない。その時人は、アナログなものの魅力とは何かが定義し辛くなるだろう。一つ一つの素材には一次ソースとしての素質があり、そこが揺るがない限り存在意義はなくならない。


 埃っけなくデジタライズされていく中人の感受性は衰えるのか覚醒するのかは、抽象画を見続ければ垣間見える。

デジタルは現実そのものの複製を目的としているので、自然のマテリアルは複製を超えた精密な複製品として、人間にとっての価値を保ち続ける。絵の具の魔力がそれ以上でも以下でもいけないように、素材がどんな状況で良性に働くかは観測してからでないとわからない。

人はまだ人が自覚できない何かによって感覚しあう「意味のある偶然の一致」は、現象として存在する限り人はスタンドアローンでないと言える。仲介者としてのアートマン、森羅万象創出元のブラフマンを根源とした相対的な空間が広がっていることを意識させられる。

我々はあたかも自由意志が存在するように行動することを強いられている。しかし疑いもなく自らの生涯は自分ではどうにもならない様々な要因によって決定されている。人間は真に自由ではないというのもまた事実である。

抽象画に滴る絵の具の流れは、そこが定位置であるかのように振る舞うのだ。

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